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逆境を生きる 農聖 松田喜一に学ぶ 第二回

歴史的名著「君たちはどう生きるか」の漫画版が200万部を突破しましたね。いかに生きるか、誰でも問い求めていることといえるでしょう。松田喜一先生は、農業を通して人間いかに生きるかを示されているように思います。今回は、先生の忘我育成の魂、農魂の人生を概観しましょう。

<執筆者>
元宇城市立豊川小学校長
尚絅大学・平成音楽大学非常勤講師
中川 敏昭

先生の生まれ育ち

先生は、二宮尊徳の生誕百年後の明治20(1887)年、小地主兼自作農の松田家の長男として現宇城市松橋町東松崎に生まれました。幼小の頃は、祖父喜七の孫として可愛がられ、質素倹約、腰をたたきながら働く母エトの姿を見て育ちました。
高等小を卒業したら百姓をすることに決めていましたが、父萬蔵の勧めで熊本農業学校へ進学。近代的農業を学び、初代校長河村九(ちか)淵(すえ)の薫陶を受けました。
その後熊本農業学校助手、農商務省農事試験場技手を経て1年志願兵。恩師入江藤七の「成績1番は無理でも真面目1番にはなれるぞ」の激励に発奮。しかし軍隊生活の厳しさが身にしみ、手がかりを求め終夜燈の下で伝記を読みふけり、偉人の並み外れた努力を感得しました。「人並みなら人並み、人並み外れにゃ外れぬ」と感奮興起し、最後の将校試験では1番になりました。

発願:農業の神様へ

退役後は自家農業に励み、休憩時には畦道で本を読み、恩師河村が拓いた果樹園や県内外を視察し人生を模索しました。
明治44年、先生23歳の時、用水路「底井樋」を完成させ、区民を救った祖父喜七の思いが心に響き「私も世に残る置き土産をします」と発願。その後、恩師河村の紹介で栽培学の大家を訪問し、教えを請い学びました。その年には、県立農事試験場技師となり、熊本の麦生産の現状に奮起し、一月余り欠勤、自費で全国麦行脚を敢行しました。
試作を重ね縦筋播の麦作法を創案。3、4年で県下に普及させ、 30歳そこそこの若さで農業の神様と尊称されるようになりました。

祖母モキと祖父喜七

松田農場創設と逆境試練

大正9年、先生32歳の時「論より証拠」のもと、現合志市黒石原に肥後農友会実習所(通称松田農場)を創設。120名入所、生徒と共に開墾の毎日でした。2年目は経営難に陥り食糧にもこと欠き、余りの厳しさに一期生は半数以上逃げ帰り、3年目はどん底生活、4年目は退去命令を受け、血の涙を流し辞世の歌を詠みました。
そのような時、九州日々新聞社(現:熊本日日新聞社)山田社長の支援は救いの神でした。その後中川・佐竹両熊本県知事の信任により、八代海の県営干拓地の造成と昭和の村づくりに着手し、昭和3年には干拓地で再び農場を起こしました。
経営が軌道に乗りかけた昭和17年と19年には堤防決壊で2度の大潮害を受け農作物は全滅、4年間収穫なしのどん底生活を送りました。この逆境試練を不屈の精神と著書の売上げ、見舞金や松橋・豊川分場の提供等で乗り切りました。

松田農場のシンボル・大サイロ

先生の時代の到来と輝き

戦後の食糧確保と増産は先生の出番でした。昭和21年秋、3泊4日の講習会には全国から約7000人が受講。春秋の講習会は毎年大盛況、先生への尊敬と期待の表れでした。昭和24年天皇ご巡幸、その後高松宮、三笠宮殿下ご視察。農場卒業生3400人、講習生43000人、全国聴講者 数百万人。著書50冊超、月刊「農友」50年発刊。そのほか数多くの名言を残され、昭和43年、農業高校生への講話の直後倒れ、80歳で亡くなられました。

農場全景
大観衆を集めた昭和21年の講演会
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