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源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第十五回

松田喜一先生

「僕は心の中に磨き上げたい石がある。それを野球を通して輝かせたい」。これは、プロ野球のイチロー選手の言葉です。3月の現役引退表明の言葉も心に染みました。貫けたものは「野球のことを愛したこと」。ファンについては、「人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきた。ファンの存在なくしては、自分のエネルギーは全く生まれないといってもいい」等々。ファンと一体の境地・喜びの言葉、磨き抜いた人格・精神から滲(にじ)み出た言葉だと思いました。喜一先生も、農業を愛し、万物と我とは一体であるという釈尊(しゃくそん)の教えにたどり着いています。そして「農業を好きで楽しむ人間になれ」「三作れ:人間作れ 土作れ 作物作れ」「一角を破れ」等の言葉を残しています。イチローも先生も心底愛したことを実践し、人格・精神を磨き上げ、多くの人を魅了したといえるでしょう。
今回は、先生の人格(人間性)、精神(生き方)に大きな影響を与えた人、先生の原点ともいえる祖父松田喜七と恩師入江藤七に迫ってみたいと思います。

祖父喜七の偉業と先生の発願

松田喜七翁頌德之碑
掘り出された底井樋

祖父喜七は、不知火海の干拓地(現松橋町東松崎)に入植したおじ松田円八と妻サチに子供がいなかったので養子となりました。この東松崎は、海水が流れ込む川底横断の用水路「底井樋(そこいび)」は松材で作っていましたが、痛みが激しく漏水し、田植え時期には水が不足し苦慮していました。若くして庄屋となった喜七はその解決策を熟慮しましたが、これまで通り川底を通す以外に方法はなく、村人の願いを叶えるべく石材改修を決断しました。厚さ18㎝の石材を組み合わせ、外法(そとのり)横96㎝縦86㎝、内法(うちのり)横60㎝縦50㎝、全長35mの用水路です。セメントも重機もない時代、潮水が流入する川底横断の工事は思うように進まず年を越してしまい、完成するも水を流すと石材の継ぎ目から水が噴き出してしまう有り様でした。田植え時期が迫っても解決できず非難の声。協力する村人も減り万策尽き喜七は、自殺を覚悟する程窮地に追い込まれました。そのことに家族が気付き難を脱しました。

底井樋付近の風景(宇城市役所近く)

ふと宇土の轟泉(ごうせん)水道の漆喰(しっくい)のことが浮かび、家族親類の東奔西走の末にその秘法と宇土細川家御用左官の協力も得て、1852727日に「底井樋」を完成させました。その日には、毎年喜七の偉業を称え底井樋の地まで太鼓や鉦(かね)を鳴らして祝いました。祖父喜七の偉業やそれに込められた思いや精神は、今も底井樋祭りと共に語り継がれています。
小さい頃の喜一先生には底井樋祭りはただ楽しいばかりでした。祖父の偉業が喜一先生の心に響くようになったのは志願兵や自家農等の経験を積んだ23歳の時でした。底井樋の前に立ち当時の祖父の苦衷(くちゅう)を思い幾度か泣き、心が決まっていきました。発願については、著書「農魂と農法 農魂の巻」には「祖父は死んだが事業は生きて居る。結局祖父は死なないのである。然り(しか)祖父には『永遠の生命』がある。・・・我も亦(また)『永遠の生命』を求めよう。地位が何か、名誉が何か、何なりと此(こ)の世に置き土産を残して永遠に生きてみよう。が祖父の遺業から得た私の覚悟であった」

恩師入江藤七と先生

農業を愛し至誠を貫く先生の生き方に影響を与えた人として恩師藤七(明治5年~昭和8年)がいます。一兵卒から努力し日露戦争では大隊副官まで昇りつめ、退役後は教師として活躍した人です。先生が志願兵(20歳)として入隊する時、「成績の大隊1は無理でも、まじめの大隊1なら心がけ次第ではなれるぞ」という門出の言葉を贈っています。先生はこの言葉を胸に努力を重ね、最後には成績までも大隊1になりました。この言葉は、誠を尽くす先生の精神・生き方に影響を与えたといえるでしょう。藤七の教え子等で「入江藤七頌徳之碑」が豊川小の一角に建てられました。それは喜一先生が亡くなられた年(昭和43年)の12月、私が中学3年生の時でした。この碑の建立の意味も分からず眺めていたことを思い出します。
何かに真に誠を尽くした人(格)から滲み出た言葉は、多くの人を感化し永遠の生命を得るように思います。

入江藤七頌徳之碑(豊川小)
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