カライモ博士と呼ばれる民三(明治34年~昭和55年)は、16歳のとき天草の農産物の品評会に出品し、カライモの部で群を抜き、1位になれると思っていましたが結果は2位でした。その時、そこに居合わせた農業の技手にカライモのことを尋ねると「県立農事試験場に行って松田喜一(30歳頃、農業の神様と称えられ始めた頃)という人に聞け」。これがきっかけで喜一先生を訪ねました。先生はカライモのことはあまり詳しくありませんでした。が、民三は確かに凄い人だと感じ、この人のもとで勉強しようと思い手紙を出しました。これがきっかけで大正10年に松田農場の助手に。その後、向学心旺盛な民三は大正13年に熊本農業学校へ進学。さらに農業学校の教諭等、松田農場への天皇御巡幸の折にはご進講を務めました。昭和26年には先生に請われ、今度は農場の主事として経営と農場生の育成に尽くしました。娘も松田農場で学ばせたことからも、いかに先生を尊敬していたかが分かります。民三が指導したある農家では一本のカライモのつるから3705個のカライモが穫れました。まさにカライモ博士です。
源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第二十一回
松田農場(大正9年~昭和43年)の卒業生は3千4百人、講習生は4万3千人、全国講演行脚での聴講者は数百万人とも言われています。今回は、先生に大きな影響を受けた今福民三(たみぞう)と谷口巳三郎(みさぶろう)に学んでいきましょう。共に熊本県近代文化功労者で、道徳教育用郷土資料「熊本の心」に資料名「カライモ博士」と「今、君の瞳はかがやいているか」で収録されています。
今福民三と喜一先生
谷口巳三郎と喜一先生
巳三郎(大正12年~平成23年)は、熊本県立農業大学の教官を退職し、昭和58年、59歳の時、夢を叶えるため単身でタイに渡り転々とした末に、1990年(平成2年)、チェンライに「谷口21世紀農場」を開き、農業の発展と後継者の育成、エイズ問題や沿道の植樹等環境問題にも取り組みました。
平成16年、私は坂本中学校長として着任。その4月、巳三郎氏はこれまでの功績が認められ坂本村名誉村民推挙状贈呈式のため帰国し来校。その折り失礼を顧みず「喜一先生をご存じですか」と。その時は「よく知っている」とだけ答えられました。
その夏休みに坂本村の事業の一環で、タイの「谷口21世紀農場」に生徒18名を引率しました。朝の集いは、国旗の掲揚、その後「谷口21世紀農場」のスローガン「私は家族の希望の星 私達は国の宝そして我々は人類の食糧を生産する戦士である」「希望があれば瞳は輝く 希望は自ら作るもの 今、君の瞳は輝いているか。
例え、失敗したとしてもやってみることにこそ価値がある」を唱和、遙拝ようはい)、所長訓話、郷土に向かっての拝礼と、師友の挨拶等。それは松田農場の朝礼そっくりでした。農場内にあった坂本中学校の森の手入れや農作業、国道沿いの植樹、風呂もクーラーもない生活も貴重な体験となりました。次年度も引率し、研修を終えて帰る間際に、巳三郎氏は「私は、喜一先生を手本にしてやってきた」と、私はやはりそうか・・・。
クラーク、河村九淵、喜一先生、巳三郎へと続く精神が、異国の地まで繫がっていることを思うと不思議気がします。
研修報告書より
「2度も引率するとは思っていなかったタイ国研修。2年生18名、引率者5名、6泊8日の研修。空港には谷口先生をはじめ、昨年お世話になった方々が迎えに来てくださった。再会の喜びと今年もいよいよ「農場の生活」「国道沿いの植樹」「アカ族でのホームステイ」等が始まるなという思いであった。・・・5日目、車でアカ族の村に向かった。険しい山道でやっとたどり着くことができた。昨年お世話になったアカ族の村より生活はさらに厳しい。いかに私達が贅沢な暮らしをしているか。貧しくても助け合って生きておられる姿・・・私達に「何が幸せであるか」を投げかけてくれた体験でもあった。」
喜一先生への憧れと勇気ある決断が、民三と巳三郎の運命を切り開き、夢の実現に、多くの人の幸せに繫がったといえるでしょう。私達も今からでも遅くはありません。「50・60花盛り、70・80実なって、90・百歳熟れ盛り(平沢興:元京都大学総長)」
- 松田喜一に学ぶ