この連載も今回を含めて後2回です。これまで先生に影響を与えた師・偉人や古典に学び、また、先生の影響を受けた偉人にも学んできました。先生が30歳そこそこの若さで農業の神様と称えられ、それにふさわしい功績を残せたのは①血・遺伝と地域・環境の力、②師の教えからの学び、③逆境試練からの学びがあったからといえるでしょう。
源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第二十三回
血・遺伝と地域・環境の力 血・遺伝の力
これまでも述べてきましたが、先生は明治20年(1887年)に松田萬蔵・エトの長男として生まれました。家は、小地主兼自作農で3町数反、村では大百姓で雇用人5人。先生の自伝『私の記録』には、「祖父母のもとに、伯父達夫婦と私の両親とが同居し、久しく子供が無かった家に、初めて私が生まれたので、皆喜んで「喜一」になったようです」と。
先生は、村では、父萬蔵の子としてより祖父喜七の孫で通っていました。祖父喜七は、伯父の松田家に養子としてきました。若くして庄屋となり石材の用水路「底井樋」の偉業をなし、後には区長も務め、師走には貧しい人にもち米を配り、死の間際の人のところへは馳せ参じ借金を帳消しにして天国に逝かせ、保証人に立った時には、当人不払いの場合は自分の田畑を売って返済するなど、人のよさは並外れていました。祖母モキは、孫への思いは強く先生が小さい頃は危険な遊びは厳禁し、高等小学校卒業後は、兵役をのがれられるよう師範学校を勧めました。最終的には、父萬蔵の勧めで開校間もない県立熊本農業学校へ進学しました。上級学校へいく者が少ない時代に熊本農業学校を勧め進学させたことは父の英断であったといえます。母エトは、昼休みには炊事は雇用人にまかせて稲の苗の余りを水路に植え、畑の畦には余すところなく秋ササゲ(マメ科)を蒔き、夜はランプの油が少なくてすむように燈のそばで裁縫する等、質素倹約の働き者でした。このような家族の生き方や思いが、先生の精神の基盤を築いたといえるでしょう。
地域・環境の力
先生が生まれ育った現松橋町東松崎は干拓地であり、入植者は、開拓精神や自主独立に満ち、互いに助け合って村を作ってきたことは想像に難くありません。特に、川底横断の用水路「底井樋」は、庄屋であった祖父喜七が石材改築を決断。石の継ぎ目から漏水が止まらず工事は困難を極めましたが、親類、区民や左官等の協力を得て1852年7月27日に完成。その日には、祖父の偉業を称えた「底井樋祭り」が行われました。郷土や国家、農業への先生の強い思いや挑戦は、開拓精神、自主独立、相互扶助に満ちた地域に生まれ育ったことが大きな一因といえるでしょう。
師・偉人の教えからの学び
先生は、熊本農業学校で近代的科学的な農業を学び、初代校長河村九淵(ちかすえ)(札幌農学校でクラーク博士の精神を学ぶ)の薫陶を受けました。卒業後も九淵に直接学び、導かれ農業のみならず人生の基盤を築いたといえます。これが、県立農事試験場での研究試作や日本初の私設農場の創設、その後の活躍・偉業に繫がったといえます。師との出会い、師の教えからの学びがいかに大切であるか、真の師なくしては真の開眼も、真の成長もないといえるでしょう。
逆境試練からの学び
人間は、血・遺伝の力と師や偉人等の教えだけでは甘さが残りがちです。人間の甘さを払拭し洗練していくには逆境試練が必要といえます。逆境試練は、自分の能力を最大限に発揮させるチャンスともいえます。先生は、2度の大潮害の試練等によって鍛えられ、また、そこから深く学び、心に響く言葉や教えを紡ぎ出したといえます。
私達は、家族の愛情や思いを感じ、地域に育まれ、師との出会いや逆境試練等から学び成長してきました。また地域環境を作る一員であり、師となり得る存在でもあることに深く思いを致し、日々高め尽力したいものです。私は、これからも教育の発展のため、またこの連載を機に農業にも一層心を寄せ微力ながら尽くしていきたいと思います。
- 松田喜一に学ぶ