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源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第二十二回

この「農業くまともとアグリ」の連載もあと2回です。戦後間もない昭和21年12月に発刊され版を重ねた著書「農魂と農法 農魂の巻」は、先生の根本の教えです。「観念篇」「抜苦与楽篇」「事業篇」から構成されています。今回は「観念篇」の『概説』『人生の意義』から学んでいきましょう。

松田喜一先生

観念篇の『概説』の書き出し

「東に在る東京を、西と間違えて急いで行く人があったとしたら、実に気の毒ではないか、之を『方角違い』といふ。頭では何程研究しても、身体では何程努力しても、心が方角を間違えて居ては、あわれ研究も努力も、逆効果にしかならないであろう。其処で人生で何より肝要な事は、正しき観念を養ふことである。そして之を我等の「人生観」となさねばならない。(略)『上が濁れば下流も濁る』、上が誤れば必ず下も誤る。併し乍ら(しかしながら)、如何なる建物でも土台は下である、基礎工事が悪かればこそ、上が曲(くる)うのである。下の歪(ゆが)みが、上の歪みだ。我が日本を危局(注:戦争のこと)に導いたのは、下も亦歪んで居たに相違ない。そして下の油断からでもあると思わねばならない。(略)心の方向を何うして正すか。其れは天地の声を聴きつつ、正しき人に学ぶことである。天地の声を聴くといふのは、実際に世の中の事に触れて、世の中から学べということである。其れには世の中の事で苦労し乍(なが)ら、よく世の中を観察せねばならない。(略)実は此の世の中は無限大に幸福があるが、逆に自分故に惨憺(さんたん)たる不幸を招くのである。一世の幸福も、一生の不幸も(略)皆自分故に決まる事である。」

河村九淵校長銅像(熊本県立熊本農業高等学校)

先生はどのような体験、学びがあったからこのような境地に達せられたか前回まで縷々述べてきたました。振り返ってみましょう。

1、世の中の事で苦労しながら学ぶ
先生は、若い頃全国麦行脚を敢行して学び、また、逆境試練に見舞われ、艱難辛苦(かんなんしんく)と共に深い満足感・充実感を味わっています。この逆境試練については再三述べてきましたが、黒石原の農場では自殺を覚悟する程の経営難、干拓地昭和村での再挑戦、そして3年に2度の大潮害、その直後、昭和19年長男健一戦死、同20年三女澄子満州で死亡、同21年父萬蔵の死。
先生の教えはこのような辛酸を嘗(な)め尽くす試練の中から学び生み出されたといえます。

2、正しき人に学ぶ
先生は、農業について、熊本農業学校で初代河村九淵校長や遠藤萬三と出会い、また九淵の紹介で北海道の栽培学の泰斗南博士等からも学んでいます。また、前回まで述べてきたように本を通して二宮尊徳、中江藤樹、吉田松陰等の偉人から、さらに、論語(孔子)等の古典からも学び深め、正しき観念を養い実践してきたといえます。

3、皆自分故に決まる
人生に順境の時も逆境の時もあります。逆境の時、何を感じ何を学ぶかで人生は大きく変わってくるように思います。人生に無駄なし。本当に苦しい時もありますが、何年か後に振り返ると、それが自分を強くたくましく大きく成長させていることがあります。先生も前記の試練によって心身共に強くなり、確信、信念、悟りに繋がったといえます。私自身も、逆境試練が自分をたくましくしてくれたと実感しています。

観念篇の『人生の意義』

「何とかしてもっともっと生まれ甲斐があるようにして死に度いのである。(略)置土産を残して、永遠に生きて見よう。之が祖父の遺業から得た私の覚悟であった。(略)我々の一生は善の種子を播き、善根に培えばよい。(略)結局尊い目的に生きる事である。尊い目的とは『利他』の目的である」。

正しき観念を養い 尊い目的に生きる

『概説』と『人生の意義』の教えは、心の方向・正しい観念を養うことを人生観となし、尊い目的・利他、つまり世のため人のために生きること。日々実践しながら世の中や古典や歴史、聖賢の良書、当代の泰斗等に学ぶこと。自分にしかできない善種を播き自己の使命を果たしていくこと、これを肝に銘じ努力したいものです。

喜一先生訓
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