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源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第十七回

松田喜一先生

「天地の恵積み置く無尽蔵、鍬で掘り取れ鎌で刈り取れ」。喜一先生の著書「農魂と農法 農魂の巻」に記載されている二宮尊徳(金次郎)の教えです。尊徳は、内村鑑三の著書「代表的日本人」の五人の中の一人です。戦前はどこの小学校の校庭にも薪を背負い「大学」を読みながら歩く金次郎の銅像がありました。戦争末期、アメリカは宣伝ビラで「二宮尊徳は、リンカーンにも比すべき平和主義者である。尊徳主義に返るとき、永遠の世界平和が訪れる」と訴えました。今回は先生の源流・尊徳の教えに学んでいきましょう。

二宮尊徳の教え報徳(「至誠」「勤労」「分度(ぶんど)」「推譲」(すいじょう))

尊徳は、1787年天明7年(~1856年 70歳)に神奈川県に生まれ、14歳で父を亡くし、16歳の時母親とも死別。引き取られた伯父の家でよく働き、夜は行灯の明かりで読書をしました。しかし「百姓に学問はいらない。第一油がもったいない」と伯父から一喝されました。友人から一握りの菜種を借り荒れ地に蒔き、翌夏に8升の油を得て、また17歳の時農家の捨て苗を拾って空き地に植え一俵の米を収穫しました。このような経験から小を積み重ねることが大きな成果に繋がることを実感し「積小為大(せきしょういだい)」(喜一先生は「積小成大」)という真理を発見しました。
尊徳の時代は、多くの藩が財政難に陥り大飢饉では多くの餓死者がでました。藩から再建を依頼された尊徳は、まず農民の心に善心の種を蒔き、道徳力を高めることから始め、620の町村の財政を立て直しています。
尊徳の教え、報徳学は実行学です。物や人に備わる価値や特性を「徳」と名づけ、それを活かし社会に役立てていくことを「報徳」と呼びました。それは「至誠」をもって「勤労」、「分度」(立場や状況に見合った生活をし、節約すること)、「推譲」(家族・子孫のために蓄え、余財を社会や未来のために譲ること)を実行することです。

 

尊徳から学び日本の発展に尽くした経営者 

渋沢栄一(1840~1931年 日本初の銀行創設、日本資本主義の父、新1万円札への登用決定)、豊田佐吉(1867~1930年 トヨタ自動車の源流)、土光敏夫(1896~1988年 臨時行政調査会会長として行政改革を断行)、松下幸之助(1894~1989年 現在のパナソニックの創始者)、稲盛和夫(1932年~京セラ、KDDI創業者、JAL再建)。

渋沢氏は次のように紹介しています。「尊徳先生の遺されたる四か条の美徳(至誠、勤労、分度、推譲)の励行を期せんことを希うのである。まず至誠は、何をやっても必ず基礎とならねばならぬもの」、土光氏は「尊徳先生は『至誠を本とし、勤労を主とし、分度を体とし、推譲を用とする』報徳実践の道を唱えられ、実行に移されたのであります。先生の思想と実践方法を(略)、会得していただき、応用していただきたい」、稲盛氏は「尊徳は、村が荒廃するのは、農民の心が荒廃しているからだと考えていました。そして、ただひたすら、鍬や鋤を手に、田畑を耕し続けます。その様子を見て、農民も一生懸命に働き始めます。」)

 

尊徳と先生の至誠と実行に学ぶ

先生は、尊徳の生誕百年後に誕生。時代は明治27年日清戦争、 明治37年日露戦争、大正3年第1次大戦、昭和16年太平洋戦争等、食糧難であったといえます。国の根幹に関わる農業の発展のため大正9年に理想の農場を創設し農業青年の育成に立ち上がりました。経営難や大潮害等の試練に遭遇しましたが、戦後はまさに先生の時代でした。昭和21年の秋の講習会には全国から約7000人参集、その後の春秋の講習会も大盛況、全国講演行脚での聴講者は数百万人、人々に勇気と希望を与え食糧危機を救ったといえます。また、先生の著書や50年間発刊の月刊「農友」には、農業を通して人間としての生き方に覚醒させる思いが込められています。尊徳も先生も人間作りを大切にし、人々の善心を育み、至誠をもって実行しました。その人格的エネルギーは今も発し続けているといえます。
今日の発展、繁栄は、多くの先人の報徳(至誠、勤労、分度、推譲)のお陰であるとしみじみと感じました。私達も自らの心を耕して、善の種を蒔き、報徳に努め、使命を果たしていきたいものです。

 

昭和21年 秋の講習会
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