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源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第十三回

昨年度は「逆境を生きる」をテーマに喜一先生の「論より証拠」の実践から紡ぎ出された教えに学んできました。今年度は先生の人生や精神の源流・原点、つまり先生に大きな影響を与えた偉人賢人や本等を明らかにし、そこから学び私達の人生に生かしていきたいと思います。さて、私は喜一先生とは同郷(松橋町東松崎)です。しかし面識はなく農業の経験もありません。その私が先生のことをこの月刊誌に2年も連載するとは思いもしませんでした。今回は先生と私の関わりをまずお話しします。

祖父喜七の記憶

祖母モキと祖父喜七

祖父喜七は喜一先生に多大な影響を与えています。喜七は1830年に生まれ、川底を横断する用水路「底井樋(そこいび)」(1852年7月27日完成、通潤橋より着工は5か月、完成は2年早い)の偉業で知られています。完成の日には祖父を称えた「底井樋祭り」が毎年行われるようになったが戦後は途絶えていました。私は小学生の頃、毎年みょうが饅頭や煮しめ等を作る日があるので不思議に思って「今日は何ね」と尋ねたことがあります。母が「今日は底井樋祭りばい」と答えたのを微かに覚えています。各家庭ではささやかに祝っていたのではないかと思います。しかし祖父喜七の名前やその偉業を認識したのは30歳半ばでした。なおこの祭りは平成14年に60数年ぶりに復活し、その後底井樋太鼓・唄・踊りが創作され、近年では喜一先生を称えた「松田神社大祭」でも披露されています。

豊川小(5年生の底井樋太鼓)

喜一先生の記憶

「今度、松田先生が話にこらすてばい」「今日は松田先生の話を聞いて来た」。これは親しみと尊敬の念が込められた農家の人の会話です。私は幼心に喜一先生は凄い人なんだと思っていました。ある日突然「松田先生が亡くなられたってばい」という驚きを込めた母の言葉は今も脳裏にあります。それは昭和43年7月30日、私が中学3年生の時でした。

二人との真の出会い

教職に就き道徳教育に関心を寄せていた私は、30歳半ばの頃ある出版社の熊本県版の道徳の副読本(読み物教材)を作ることになりました。宇城の担当として頭に浮かんだのは高群逸枝や喜一先生でした。本等で調べていく中で、先生が尊敬し憧れた人は祖父喜七であること、祖父は自殺を覚悟する程の苦難の末に用水路「底井樋」を完成させて区民を救ったことが分かりました。感動すると共に小学生の頃の記憶も蘇り、祖父の偉業を教材化することにしました。この教材作成が、私と祖父喜七と喜一先生との真の出会いとなりました。

不思議な縁

私は喜一先生と関わりのある学校に勤務しました。一校目は蘇陽(現山都)町立蘇陽中学校です。そこには馬見原分校があり教頭は兼務。早速着任の挨拶に行くと、校庭のど真ん中に喜一先生の頌徳之碑が建っていました。驚きと共に「なぜ八代の農場から遠く離れたこの地に建っているのだろう」と思うと同時に改めて先生の偉大さを実感しました。その後分かったことは、先生はこの馬見原で何回か講演され、馬見原分校は元矢部農業高等学校の分校であったこと、先生は視察に来た馬見原分校生への講話の直後に倒れて亡くなられたことです。二校目は坂本中学校です。谷口巳三郎氏は喜一先生を手本にタイで農場を開きました。私は村の事業でその農場に生徒20名程を2度も引率したのです。三校目は先生の母校でもある豊川小学校です。昭和38年当時、豊川小の先生方は、喜一先生から祖父喜七の偉業を聞き取り道徳の教材化に挑戦されていました。校長室を整理していた時その資料を偶然発見し、その資料から祖父喜七はおじの松田家に養子としてきたことが分かりました。平成24年度は、「熊本の心」の活用事業の研究推進校となり、その成果として、祖父喜七や先生の偉業等をまとめた「豊川の心熊本の心」を学校として発刊し保護者等に配付しました。このことが先生の御子息に伝わり下記著書やこの連載に繋がりました。不思議な縁で結ばれた連載、次回からは先生に多大な影響を与えた源流と共に皆様自身の源流も探究していきましょう

 

 

熊本地震被災前の生誕之地碑
熊本地震後に修復された姿
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