【Sun】

源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第十八回

先生は、32歳の時、黒石原(現合志市)の地に農場を立ち上げましたが、自殺を覚悟する程窮地に追い込まれました。その時、吉田松陰の辞世の句をまねて「身はたとえ黒石原に朽ちぬとも 留め置かまし農友魂」と詠んでいます。先生は、松陰から多大な影響を受けていたことを感じ取れます。

松田喜一先生

吉田松陰(1830~1859年)

松陰は、知行合一の陽明学を信奉した儒学者で、思想家、教育者、兵学者であり、幕末維新を主導した精神的支柱となり、近代日本の先駆けとなって歴史を動かした人です。若い頃から日本中を回って西洋やアジアの事情に通じた人たちと交わり見聞を広め、知識と体験は他を凌駕し多くの人を魅了しました。牢獄でも12か月で618冊読破、囚人たちは松陰の講義を聴くようになり、獄中は学び合う場に変わる程でした。
松陰の座右の銘は、「孟子」の「誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり、至誠にして動かざるものは、未だ之あらざるなり」。その他「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」「人生は寿命の長短ではない」「・・・何歳まで生きるかではなく、どれだけ充実した生き方をするかだ」等、心に響きます。
憂国の情、信念、愛国心と相まって散った松陰は、死んで花実を咲かせた人ともいえます。松下村塾で学んだ高杉晋作(騎兵隊を創設)、久坂玄瑞(松陰の妹婿)、伊藤博文(初代内閣総理大臣)らが陽明学の思想に大きく突き動かされて維新の偉業を成し遂げました。燃えるような松陰の人格や思想は、日本の農業の現状を憂い立ち上がった喜一先生と相通ずるように思います。

吉田松陰

吉田松陰と喜一先生の生き方

共に理想の実現を目指し挑戦した実行の人といえます。喜一先生の「論より証拠」、徹底主義、率先垂範等は、松陰の知行合一の生き方と響き合います。
先生は、県立農事試験場に勤務していた時、熊本県の麦の生産が低い現状を憂慮し、「論より証拠」のもと3年間貯蓄し、一か月間の欠勤を申し出、自費で全国麦行脚をしました。その学びをもとに試作・実験を重ね、松田式麦作法を考案しました。大正9年には、日本の農業を憂い、黒石原の地に肥後農友会実習所(通称松田農場)を創設し農業青年の育成を目指しました。残念ながら農場は2年目で経営難に陥り、4年目には退去命令を受けました。
「大きな名乗りを挙げて旗上げした事業が、たった4年間で亡びねばならぬかと思えば、どうしても夜も寝れない。職員や生徒には勿論、妻にも之を知らせる勇気がなく、一人悩んでは血の涙をしぼった」と。その時、松陰の「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」をまねて、前記の辞世の句を詠みました。
しかし、論語「徳は孤ならず 必ず隣有り」の言葉のように、山田氏(現在の熊本日々新聞社社長)や中川・佐竹両県知事等の支援者が現れました。先生は更なる覚悟のもと、昭和3年八代の干拓地昭和村で再挑戦していきました。今度は大潮害等の逆境試練に遭遇しましたが、戦後の日本の食糧危機も救う等、農業の発展に尽くしました。
また、先生は天や国家、郷土、我家に対する使命があると考え、農業を通して日本・国家に対する忠義を果たした実行の人ともいえます。松陰の忠義の相手は日本であったことを考えると、先生の生き方は、多くの点で松陰と重なり合います。

大鞘河堤防から見た泥海となった昭和村の一部
濁水に浮かぶ昭和村

日々至誠を尽くして生きる

どんないい考えを持っていても実行しなければ知らないのと同じだということを、私は学びたいと思います。行動すれば空気が動きさわやかな風となるように自分が行動すれば世の中は変わります。ただの知識、物知りに止まっていないか、何かに真心を尽くし実行しているかを自問自問し、至誠を尽くして生きたいものです。誠を尽くす知行合一の生き方は充実した人生に、郷土や日本の発展に繫がっていくでしょう。

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