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源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第十九回

先生の著書「農魂と農法 農魂の巻」の観念篇の「二元一体」の章で織田信長と中江藤樹が出て来ます。二人を熟知していたから書ける内容です。織田信長は、天下統一への道を開いた乱世の英傑です。中江藤樹は、内村鑑三著「代表的日本人」の五人(他は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人)の中の一人で日本陽明学の開祖です。二人が出てくる箇所を紹介し、そこから学んでいきましょう。

松田喜一先生

観念篇の「二元一体」から

「父と母とで子供が出来る。一方は「陽」、片方は「陰」全く相反する二つの性格が結ばって、一つのものが現れる。之が天地の法則である。火と水は、亦天と地であり、昼と夜であり、山と海であり、畑と田である。・・・全く反対の性質、反対の立場にある物を、極めて都合よく結合させ、ぴったり血がめぐり合うことが極意「二元一体」である。・・・一方的では絶対に世の中は立ち行かない。 中庸というのは、中道のことであるという、右に偏せず、また左に偏せず、真ん中を歩いて行く。之を中庸と思って居る人があるが、私は、中庸はそんなものではないと思って居る。・・・つまり左に届き、右に届き、一切行き届いて左にも右にも偏しないよう、傾かないよう、バランスがとれた姿、それが中庸と思って居る。・・・織田信長の性質は上等でないにしても、中江藤樹では戦国の乱世は治まらないであろう。織田信長と中江藤樹の二人の性質を一人で掴んで車の両輪となしたのが中庸である。・・・横着者だといって排斥してはならない。人間には横着が要るのである。人中に出て、何か意見でも発表する場合、何より入用なのは此の横着である。・・・横着という片輪(かたりん)に劣らない謙遜の輪をはめたら、両輪が整ふので、早や横着者ではないのである。・・・日本一の人物である。・・・そして他人と自分は一体であり、知事さんも、大臣さんも、自分も一体であるという気持ちが出て来た。更に進んで、万物と我は一体であるという釈尊の教えも・・・判りかけて来た。」
先生は、二元一体の考えのもと中庸について考え、横着(信長)や謙遜(藤樹)をバランスよく併せもつ大切さを力説し、また、万物と我は一体であるという境地も実感されています。

近江聖人 中江藤樹

母親に孝養を尽くし近江聖人と称えられています。城島明彦は「中江藤樹がいなかったら明治維新は起きなかったかもしれない」と。安岡正篤は「何にしびれるかによってその人が決まる。中江藤樹は『論語』と王陽明にしびれました。」と。藤樹は「論語」や「大学」等に学び多くの人々を感化しています。11歳の時、『大学』の「天子から庶民に至るまで、人の第一の目的は身を修めることにある」、この一節に触れ驚き、身を修め完全な人間(聖人)になることを決意しました。次の馬方の言葉からも藤樹のすごさが分かります。「利を得ることが人生の目的ではなく、誠実、正義、人の道が目的であると・・・みな、この先生(藤樹)のお話をよく聞き、日々その教えに従って暮らしている・・」。
藤樹の教えを挙げてみましょう。積善については「だれでも悪名はごめんですが、名声は得たがるものです。ちょっとした善行は積もり積もらなければ名声につながりませんが、小人には、ちょっとした善行を積むことなど思いもよりません。・・・大きな善行は名声をもたらしますが、小さな善行は徳をもたらすのです。世の人々が大きな善を進んで行おうとするのは、名声が欲しくてたまらないからです。・・・徳こそ、あらゆる大きな善行の源なのです」「徳を大切にしようと思うなら、日々、善行を行うことです。善をひとつ行えば悪がひとつ去っていきます。・・・」。
「左に積善 右に生産」は先生の言葉です。藤樹の生き方、考えと響き合います。
藤樹が40歳で亡くなると国をあげての葬儀となり、徳と正義を大切にする人々はみな日本にとっての大きな損失であるとその死を悼みました。
私達も自己研鑽に努め、「左に横着 右に謙遜」、日々善行を積み、徳を磨き、一隅を照らしていきたいものです。前回まで述べてきた二宮尊徳や吉田松陰、今回の中江藤樹、先生に共通することは、欲・利害を越え、積善に生き、多くの人を魅了し感化したことです。

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