今回は、喜一先生に農業の経営や指導法等に大きな影響を与えた師として、河村九淵(ちかすえ)と遠藤萬三をとりあげます。特に九淵は農業のみならず人生の師であり憧れの人であったといえるでしょう。
源流を求めて 農聖 松田喜一に学ぶ 第十六回
熊本農業学校初代校長 河村九淵(かわむらちかすえ)
九淵は、文久3年(1863~1934年 昭和9年死去73歳)江戸に生まれました。明治9年開校の我が国最初の高等農業教育機関である札幌農学校(現在の北海道大学)の4期生で、その初代教頭クラーク博士(滞在は1年足らず)の精神を学びました。卒業後は山形で農学校教諭、香川県高松尋常中学校長を歴任。明治32年、熊本農業学校初代校長(明治32年~39年、37~44歳、在任は7年)として迎えられ、最初の1年は、開校に向けて生徒募集に県下に出かけて宣伝し、農業の改良と農業教育の必要性を農業経営者等に講演しました。入学希望者が定員に満たない場合は県庁前で腹を切るという意気込みで臨んでいます。
河村九淵との出会い・触れ合い
喜一先生は、明治35年熊本農業学校に入学(3期生)、近代的科学的な農業を学び、九淵校長の薫陶を受けました。卒業した年、県農会は食糧増産のため臨時嘱託技師を置くことになり先生はその候補に挙がりました。先生は九淵から打診があった時、好きな農業を始めたばかりで即答しかねて、帰って家族に相談しました。5日程して行くともう別の人に決まっていました。送別会で餞別までもらっていた先生は困り果て、それを見かねた九淵の計らいでしばらく熊本農業学校の助手として働きました。九淵は校長在任3年目の明治35年に自営果樹園(日渉園(にっしょうえん))を開きました。先生は、再三そこを訪ね農業を手伝い、夕食を頂くこともあり、その時、九淵の尺八にあわせて家族が謡(うた)う風情に接し陶酔しました。九淵に当時栽培学の泰斗(たいと)と呼ばれた北海道大学の南博士を紹介されれば、はるばる赴き教えを請い、その時じゃがいも名人宅の土間の作りにも感銘を受け、帰来するや否や、土間で本や新聞が読め、筆記等もできるようにテーブルや椅子を置きました。先生は、このような九淵との触れ合いの中で理想の農場経営を思い描くようになっていきました。
河村九淵の教え
弁舌爽やかな九淵は、熊本農業学校7年の在任中日本や熊本県の産業発展に貢献する人材を数多く育てました。九淵の教育方針は、クラーク博士が掲げた自修心にして独立独行と不撓不屈の精神の育成でした。特に鍛錬によって実力を身に付けるために実習教育を重んじ、品性陶冶にも不可欠という思いで「その手足を低き地に働かせ、その心を高き天に置け」と力説。この方針のもと自ら先頭に立って実践しました。喜一先生の「論より証拠」、率先垂範の生き方や徹底主義等は、九淵の鍛錬や実習を重んじる指導方針と重なり合います。二人を共に知る人は、先生の咳ばらいは九淵その人を見る思いであったと。先生は九淵に心酔していたといえるでしょう。
球磨農業学校初代校長 遠藤萬三
萬三(明治6年~昭和34年 89歳)は、札幌農学校を明治32年卒業、明治33年熊本農業学校初代教頭、明治38年球磨農業学校(現在の南稜高等学校)初代校長(心得)、1年で病気を理由にして退職。その後酪農牧場を経営。萬三の教えは、札幌学校時代の新渡戸稲造教授(にとべいなぞう)から5~6年薫陶を受けた人格教育の大切さです。喜一先生は萬三の指導助言で、昭和村の松田農場の水田平地にホルスタイン乳牛の酪農を導入し周りを驚かせました。農場の中心にそびえたサイロには「事業は高く 生活は低く」を掲げ農場の標語となりました。昭和村の村作り、村を貫く幹線道路や松田農場の経営等は、九淵や萬三から大きな影響を受け、更に遡れば札幌農学校の初代教頭クラーク博士の精神・教え(紳士たれ等)にたどり着きます。
よき教育とよき師(九淵・萬三等)との出会い触れ合いが人生にいかに大切か、私自身を振り返っても思います。
- 松田喜一に学ぶ