この言葉は、物事の是非善悪や道理を議論することを否定したのではなく、その考えを実践し証拠や成果を示すことの大切さを教えています。理論だけで農業の振興を叫び、議論するだけでは何にも変わりません。多くの分野で、あれこれと理論を主張する人は多いけれど、実践してその正しさを示す人は少ないように思います。よい考え方や持論も実行しなければ知らないのと同じで、絵に描いた餅になります。
逆境を生きる 農聖 松田喜一に学ぶ 第五回
今回の言葉「論より証拠」は、先生の根幹をなす精神、生き方といえます。先生自ら理想の農場の創設や農業の青年の育成に立ち上がり「論より証拠」で示さしていかれました。
「論より証拠」
「先知後行(せんちこうこう)」「知行合一(ちこうごういつ)」と「論より証拠」
「論より証拠」を考えるとき、朱子の「先知後行(せんちこうこう)」が浮かびます。人間は先ず知ることが大切であって行うのはそれから後になる、つまり人間は知らなければ実行できないということです。王陽明の「知行合一(ちこうごういつ)」の考え方もあります。多くのことを知っていても実行しなかったらそれは全然知らないのと同じで、実行することのみによって初めて真に知ったことになるという考え方です。このことから「論より証拠」は、王陽明のいう「知行合一」につながる言葉、いや知識や理論を実践して成果や証拠まで示すという意味では「知行合一」よりもっと厳しい生き方、考え方といえるのではないでしょうか。
先生の生き方とその根源
先生の生き方は、「論より証拠」、実証主義であり、自ら厳しい生き方をされたといえます。黒石原の農場では「行き詰まりの論より証拠」を示してしまったと、深い自責の念をもたれていました。が、それにこりず干拓地昭和村で、理想の農場創設と農業青年の育成に再挑戦し、その後の実績(農業の発展、春秋の講習会)や活躍(全国講演行脚)等は、まさに「論より証拠」です。このような実績等に対して、昭和24年昭和天皇の御巡幸、昭和26年高松宮殿下、昭和27年三笠宮殿下の御視察がありました。先生の喜びはいかばかりであったでしょうか。
先生の「論より証拠」の厳しい生き方は、祖父喜七の偉業による無言の教え、人生の岐路における父の導き、質素倹約・勤勉な母の姿、それから河村九淵(ちかすえ)校長の薫陶、恩師入江藤七の激励、二宮尊徳への憧れ、吉田松陰の生き方や国や郷土、家に対する思いなど、様々な導きの糸があったからでしょう。最終的には「天」や「国家」「郷土」「我家」に対する報恩や使命、「国家の基盤ともいえる農業をどぎゃんかせんなん」という切なる思いがあったからではないでしょうか。
先生と松陰
先生は、黒石原の農場の経営難の窮地に陥り自殺を覚悟した時「身はたとえ黒石原に朽(く)ちぬとも、留め置かまし農友魂」と詠んでいます。これは、吉田松陰の辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」をまねたもので、松陰にも深く学んでいるといえるでしょう。
また、先生も松陰も人間と禽獣との違いを力説し、人間としての生き方を追究し続けました。先生の積極進取、革新的で知行合一、「論より証拠」の生き方は、松陰の生き方と重なり合っています。
「論より証拠」の生き方は、自己への挑戦であり自分を磨き高める生き方であるともいえるでしょう。
先生マンガ化
雑誌「※ちゃぐりん(全国版)」8月号に喜一先生の人生を漫画化(監修は筆者)されました。そのために編集部と漫画家の方が東京から取材に来られたので、祖父喜七翁の偉業「底井樋(そこいび)」や喜一先生の生誕之地碑、農場跡地にある松田神社を御案内し説明しました。また、先生の御子息昭人様から思い出話をしていただきました。
「アグリ」と併せてお読みください。
※「ちゃぐりん」…JAグループ家の光協会が発行している、農家の子ども向け月刊誌。
- 松田喜一に学ぶ